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 こんにちは。インターン生の加藤拓哉です。このインターンも含め、ほぼ一か月にわたって木曽谷で過ごした今回の滞在でしたが、そろそろ終わりが近づいてまいりました。

 先日31日は、地元の学生さんたちに勉強を教えるイベントをふらっと木曽で開催しました。前回の24日よりも多くの学生に来ていただき、とても充実した回となりました。今まで勉強を面白いと思ったことがなかった子が、今回のイベントで初めて面白いと感じてくれたりもしたようで、大変喜ばしい限りです。


 翌9月1日は、木曽谷の郷土史について話し合う座談会を開催いたしました。最初に話題作りのために自分が作成したスライドが、論点整理と先行研究の紹介にこだわるあまり、少し難解になってしまったという失敗もありましたが、多くの方にお褒めいただくことができ、嬉しい限りです。今回のイベントを通じて、少しでも木曽の郷土史の裾野を広げることができたのであれば幸いです。
 自分自身としても、座談会の内容を通じて、自分のまだまだ勉強不足な点や、今後勉強していきたい点を洗い出すことができました。また、参加者の方々のお話も面白く、大変勉強になりました。平日の遅い時間帯の開催であったにもかかわらず、多くの方に参加していただけたこと、非常に感謝しております。

 さて、名残惜しいですが、企画していたイベントも全て終わったところで、今回のブログ記事では、自分が滞在中に行った史跡巡りの様子を紹介していこうと思います。普段自分がどのような形で史跡巡りをしているのかを知っていただければ幸いです。
 今回紹介するのは、8月29日に訪れた黒川郷の史跡です。黒川はかつての新開村に属する土地で、中山道の筋から開田高原、そして飛騨へと抜ける道の途中にあります。そのような地理的重要性ゆえか、黒川には沢山の古い史跡が点在しています。この日はその中でも野中という地区の周辺にある史跡を巡りました。


 木曽福島から開田高原行きのバスに乗り、興禅寺などが立ち並ぶ向城地区を走り抜けます。木曽川の支流の黒川が本流に合流するところに築かれた黒川渡ダムの上を通って黒川を渡ると、バスは左へと折れて木曽川筋を離れ、黒川の谷間を抜ける国道361号線へと入って行きます。古い集落の立ち並ぶ中を10分少々走ると、黒川に上小川沢という支流が合流するあたりにある、野中橋というバス停に着きます。本当は一つ手前の宮前というところで降りた方がよかったのですが、乗り過ごしてしまいました。他の乗客の「コイツは一体何の用があってこんなところで降りるんだ」というような視線を潜り抜け、黒川の大地へと降り立ちます。


 この日は快晴だったので、長閑な田園風景と青い山、そして夏から秋へと移り変わっていこうとする空の風景を楽しみながら、バス停一つ分を歩いて戻り、最初の目的地、白山御嶽神社に到着しました。こんもりとした社叢の入口に佇む質素な鳥居が素敵な第一印象です。


 鳥居をくぐってすぐ右手には、「黒川郷共有山記」なる石碑があります。この石碑には旧仮名遣いで何やら難しそうなことが書いてありますが、だいたい何が書いてあるかというと、江戸時代の黒川村庄屋の古畑氏の個人所有の山に、村民が入って草木を採取する権利について争った経緯が書かれています。古畑氏は戦国時代の木曽氏の旧臣で、そのころに黒川の古山という山を貰って所有していると主張しており、これについては周囲も認めています。しかし、この山には黒川の村民が燃料や肥料、飼料用の草木を刈る入会権が存在しているとも考えられておりました。そこで、村民の入山の可否について争いが生じました。
 実は、自分の今回の黒川探訪の主な目的の一つがこちらの石碑でした。自分は歴史が好きで色々とやっていますが、大学での専門は法学です。しかし、法学には現行の法制度を扱う「実定法学」のほか、法律の歴史や、背景にある哲学などを扱う「基礎法学」というものもあります。基礎法学の分野では、このような江戸時代の土地の権利関係や、そこからの明治の近代法制度への影響なども扱うことが出来ます。歴史学と法学の境目にあって、幅広い視野と知識が求められる難しい分野ではありますが、自分は将来的に木曽の山林を題材にして基礎法学の研究をしたいと思い、関連するこの石碑を訪れることにしたのです。


 さて、この白山御嶽神社の一番の見どころともいうべきものは、神社の本殿に飾られた立派な彫刻です。この彫刻は江戸時代に木曽大工の棟梁として知られた斉藤常吉という人物が制作しました。斉藤常吉は諏訪の有名な宮大工、立川和四郎の弟子として学んだ人物で、木曽谷各地の神社に立派な彫刻を残しています。
 正面上側に瓢箪から駒を出す仙人の彫刻があり、思いがけない願いが叶うことを表します。梁には力強い龍が彫られ、左右の脇にはそれぞれ麒麟と鳳凰がいます。そのほかにも細かな彫刻が沢山ありますので、是非とも生で一度見ていきたい逸品です。


 そのほか、白山御嶽神社の見どころとして、拝殿の横にある大きな花火の筒があります。木製の筒に竹製のタガを巻いたこの大きな筒は、大正時代のものであり、かつて秋祭りで自家製の花火を打ち上げるために使用していたものでした。その後、自家製の花火が禁じられるに従って、この筒だけが残され、この場所に佇んで往時の歴史を静かに伝えています。こちらは現地に案内板などのない、隠れた名物です。


 さて、白山御嶽神社をあとにした自分は、来た道を戻って野中橋のバス停を過ぎ、野中の集落へと至りました。国道361号線を外れて山際を通る細い道へと入っていきます。少し歩くと、右手の森の入り口に小さな鳥居が現れました。これが次の目的地、野中の八幡社です。案内の看板などもなければ、Googleマップにも載っていない小さなお社です。一見すると素通りしてしまいそうな場所ですが、実はここにも史跡があります。


 それはこちら、本殿の祠の裏にある、二本の苔むした石塔です。なんの説明書きもありませんが、それぞれには次のようないわれがあります。

 まず、写真の向かって右の一本。こちらは「小サ子塚(ちいさこづか)」と呼ばれるもので、昔このあたりで村の人に預けられて育てられていたと伝わる「木曽殿」の小さな子供(一尺二寸ほど、約38センチ)を祀った塚だとする記録があります。
 ここでいう「木曽殿」とは木曽義仲のことで、小さな子供とはその遺児のことなのでしょうか。あるいは、後世の戦国時代の木曽氏も「木曽殿」と呼ばれていましたので、彼らのうちの誰かのことなのでしょうか。この伝承の真実性を証明する同時代史料はなく、憶測をすることしかできませんが、戦国時代に飛騨の軍勢と王滝村で戦って戦死した木曽義元の息子が、黒川で預かられて育てられ、兄は次の木曽家当主の義在になり、弟は古畑氏を継いだとする記録もありますので、そういった話との関連性も気になるところです。
 左の一本は、木曽基家という人物の墓であると伝わります。基家は系図上(ものによってばらつきもありますが)義仲のひ孫として登場する人物で、戦国時代の木曽氏の先祖にあたります。しかし、彼の存在を証明する同時代史料は無く、実在は疑われております。ですので、さらに言ってしまえば、戦国時代の木曽氏と義仲の血縁関係の存在も疑われています。そんな伝承上の人物の墓が、この野中の八幡社の裏にポツンと人知れず存在しているのです。

 これらの二本の石塔ですが、小サ子塚には「文政七・・・年」の文字が刻まれており、江戸時代の1824年に建てられたものであることが明らかです。木曽基家の墓の方も、同じ形状ですので、同年代のものであることは間違いないでしょう。したがって、伝承が伝える中世の人物が生きていたと思われる時代よりも、何百年も後に建てられたものとなります。仮に伝承の内容が真っ赤な嘘であったとしても、後世の江戸時代において、誰がどのような意図を持ってこれを建てたのかについて、まだまだ研究の余地があります。


 最後に、野中の八幡社のすぐ隣の田んぼの中にある、「長持塚」を紹介して締めくくろうと思います。ここは先述の木曽基家が宝の入った長持を埋めたと伝わる場所で、それを今に伝える石碑が立っています。もっとも、この石碑も恐らく基家がいたとされる頃よりはだいぶ後の時代に建てられたものでしょう。
 埋蔵物の伝承がある長持塚ですが、誰も掘り起こすことはしません。なぜなら、もしここを掘り起こしたら、村中に病気が広がる災いが降り注ぐという言い伝えがあるからです。そんな祟りまでつけて、「基家」はここに一体何を隠したのでしょうか。非常に気になるところですが、誰もここを掘り起こそうという勇気は持っていませんし、土地の持ち主もちょっと承諾できないでしょうから、今しばらくは謎のままといったところでしょうか。

 さて、このような感じで黒川の野中周辺の史跡を巡ること約一時間、先ほどのバス停へと戻ると、ちょうど次の下りのバスがやってきました。他にも有名な陰陽師、安倍晴明が死んだ場所と伝わる清博士や、もっと木曽福島寄りのところにある古畑氏の屋敷跡など、まだまだ訪れたことのない史跡は沢山の黒川ですが、この日はお昼から開田高原で待ち合わせがあったので、それらはまたの機会に回すこととしました。他の乗客の「何でコイツはこんな何もないところから乗ってきたんだ。どこの親戚の子だ?」というような視線を潜り抜けながら、バスに乗り込んで黒川を後にしました。

 古畑氏の家伝や、江戸時代に編纂された木曽谷の地誌複数など、黒川のことを伝える史料は豊富ですが、現在のところいまいちそれらの史料批判、つまり史料の内容の信憑性を検討していく作業は進んでおらず、黒川はまだまだ研究の余地がある地域であるように思われます。自分ももっと勉強して研究のノウハウを身に着けた上で、歴史と法学の多角的な視点から、この地域の実像を解き明かしていきたいところです。

 なお、ここで紹介したような歴史・伝承の知識がよくまとまっている本として、木曽教育会郷土館部が編著した『木曽 歴史と民俗を訪ねて』というものがあります。持ち歩けるサイズでありながら、地図や図面も多く用いられ、マイナーな史跡や細かな知識まで濃密にまとめられた一冊となっておりますので、木曽の史跡巡りのお供に断然オススメです。この付近だと、原野のブックガーデンYAMAJIに売っているはずです。少なくとも去年は売っていました。
 こういった多少の知識とともに史跡を巡ると、観光地になっていないような鄙びた場所であっても、歴史ロマンを感じて非常に楽しめるものなのです。

 最後になりましたが、この一か月の木曽谷滞在では、本当に多くの方にお世話になり、親切に面倒をみていただきました。自分も将来的に何らかの形でこの地域で活動し、お世話になった方々に還元できるように頑張っていこうと思いますので、今後とも何卒よろしくお願いいたします。


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